Aeolianharp Piano Studio





Aeolianharp Piano Studio News Letter Vol. 12 ( 1998)


素敵な出来事

ピアノのこともっと知りたい

作曲家の気になるお話


素適な出来事


ここ数年、日本では空前のバレエブームが起きています。各国の有名なダンサーが次々と来日し、チケットが飛ぶように売れ、日本ではではコーヒーのCMでおなじみの、イギリス・ロイヤル・バレエ団の熊川哲也が、まるでアイドルのような人気です。私の生徒さんで、バレエを習っているお嬢さんが以前いらして、何度か発表会に招待してくださいました。初めて観賞した時、音楽に合わせたしなやかな動きや、美しい踊りをよりきわ立たせる素晴らしい衣装に、夢のような気持ちになったことを覚えています。日本の大バレエブームの中、今は亡きある天才芸術プロデューサーが注目され、展覧会なども開かれています。その人の名はセルゲイ・パヴロヴィッチ・ディアギレフ。彼は20世紀の始め、今のブームがくらべものにならないほどのバレエブームを、世界中に吹きあらしました。1872年ロシアの貴族の家に生まれたディアギレフは、大作曲家チャイコフスキーの遠縁にあたります。若い頃からオペラやバレエに興味を持つ、するどい感受性の持ち主でした。のちにロシアで芸術プロデューサーになった彼は、バレエと言えばロシアという時代も去った1909年、故郷で出会った天 才ダンサーのニジンスキーとパリに乗り込みました。当時、文化の中心地だったパリでのバレエ公演はまさに大挑戦で、その上、資金は豊かでなく、男性ダンサーを全面に出す演出とまったく新しい振り付け・・・しかし、ディアギレフひきいるロシア・バレエ団(=バレエ・リュス)は熱狂的な拍手でむかえられ、新しいもの好きのパリの人々に受け入れられたのです。その時代のパリにはヨーロッパ中の金持ちが集まり、画家や音楽家を支援していました。そんなパリ社交界の中心はミシア・セールというポーランド人女性で、ディアギレフはすぐにミシアと生涯の友になり、多くの芸術家を支援していた彼女を通して、コクトー、シャネル、ピカソ、ミロ、マティスといった芸術家たちと知り合いました。彼らが台本や衣装デザインなどを担当し、音楽はドビュッシー、ラヴェル、ストラヴィンスキーらが作り、「牧師の午後」や「シェエラザード」、「火の鳥」などの傑作バレエが生まれました。ディアギレフは「バレエは音楽、美術、衣装がすべて結び付いた総合芸術だ」と語り、友人のアーティストたちにバレエ・リュスへの参加を呼びかけ、かれらの才能がバレエ・リュスの舞台を豊かにいろどりまし た。また、ディアギレフが見出したニジンスキー、マシーン、フォーキンらは、20世紀を代表するダンサーや振付家になっていきました。ディアギレフは、1929年7月の最後のロンドン公演まで、20世紀芸術運動のもっとも強力なにない手として活躍し、この年の8月19日ヴェネツィアで亡くなりました。そしてバレエ団は、彼の死とともに解散しました。たぐいまれな芸術的プロデューサーであったディアギレフは、まさに「天才を発見する天才」であり「天才を動かすことのできる天才」でありました。


ピアノのこともっと知りたい


ピアノの先祖と言われる楽器 Part. 5

ツィター(チター)

ツィターはオーストリアや南ドイツ、スイスなどで愛用される楽器で、その大きさは長さ約60〜70cm、幅が約25cmくらいの共鳴胴の箱型の楽器で、ひざの上か台の上にのせて演奏します。箱胴の上面片側に穴が開けられ、その上に腸または金属製の弦がふつう25〜30本張られます。また、その横に並行して5,6本の金属の弦が、フレット(弦を押さえる場所を示す線)の上に張られます。フレットの上の弦は演奏者の手元にあり、旋律を演奏するために用い、手元より遠くの穴の上に張られた弦は伴奏用となっています。旋律は、左手でフレットを押さえ義爪を付けた右手親指で演奏し、伴奏は左手の中の3本の指で演奏されます。弦の数や楽器の胴の型、弦の調律は、それぞれの地方によって異なります。ツィターはそれぞれの地方で民族楽器として発達しました。独奏楽器としても歌の伴奏用としても、金属製の旋律弦のややかたい音色と、伴奏弦のやわらかい音色の調和したロマンティックな響きが愛されてきました。長く民間楽器としてのみ使われていましたが、1948年に映画「第三の男」の伴奏楽器に使われ、作曲と演奏を担当したアントン・カラスとともに人気を得ました。ツィターと名が付く楽 器として、マダガスカル島などに残るバンブー・ツィターやナイジェリアなどのラフト・ツィターがあるが、これらの楽器からヨーロッパのダルシマーが生み出され、ピアノに発達したとも言われています。


作曲家の気になるお話


ヴェルディGiuseppeFortunio Francesco Verdi (1813〜1901)

先日、クラリネットのミッシェル・アリニョンとピアニスト上田晴子のデュオ・リサイタルを聴きに行きました。プログラムの最後から2曲目に、ロヴレグリオが編曲したヴェルディの《ラ・トラヴィアータ》(椿姫)幻想曲が演奏されました。この作品は、オペラ《椿姫》の中から取り上げた「ああ、そはかの人か」や「乾杯の歌」、「花より花に」などの有名なテーマをもとに、クラリットのすばらしい技巧を駆使した編曲になっていて、演奏のあでやかさとヴェルディの楽想の豊かさに、うっとり聴き入ってしまうひとときでした。生涯に30曲以上のオペラを残し、オペラの歴史に金字塔を打ち立てたジョゼッペ・フォルトゥニオ・フランチェスコ・ヴェルディは、イタリア北部の小都市ブッセート近郊ロンコーレ村の貧しい宿屋の長男として生まれました。10歳で教会のオルガニストになり、1823年からブッセートの中学に通い始めます。また音楽学校で授業を受けることも許され、ヴェルディはここで音楽の基礎を身に付けました。1828年には初めての作品《シンフォニア》を発表しました。1831年、オルガン奏者バレッツィの家に住み込んでピアノを学び、彼の美しい娘マルゲリータと恋に落ちます 。その後1832年にミラノに行き、音楽院の試験を受けるが失敗し、個人教授の下、ミラノで勉強を続けます。
1836年、ヴェルディはブッセートの音楽監督をまかされることになり、またその年の5月にはマリゲリータと結婚し、幸せに包まれました。そして最初のオペラ《ロチェステル》を書き上げたが、上演はされませんでした。1837年3月、ヴィルジニアと呼ぶ女の子をもうけ、翌年長男イチリオをさずかったが、ヴィルジニアはイチリオが生まれるとすぐ幼い生涯を閉じました。この悲しみを忘れるため、妻とイチリオを連れミラノに行き、歌曲《6つのロマン》(1838)、そして現存する最初のオペラ《サン・ボニファチオの伯爵オベルト》(1839)を作曲し、スカラ座の支配人メレルリの援助を得て脚光をあび、この成功でスカラ座から3つの新作オペラを頼まれます。しかし、再び大きな不幸がヴェルディをおそいます。
1839年10月、息子イチリオを病魔にうばわれ、翌年6月には失意の妻をも失います。この相次ぐ不幸によりうつ病状態になり、口がきけない日々が続きました。このような落胆の中で依頼された新作《1日だけの王様》(1840)は成功するはずはなく、まさに不幸のどん底のヴェルディを救ったのは、友人メレルリとプリマ・ドンナのジュゼッピーナ・ストレポーニでした。2人のはげましにより、力強い合唱と愛国心あふれる《ナブッコ》(1841)が完成し、ジュゼッピーナの主演で大成功をおさめます。当時イタリアはオーストリアの圧政下にあり、この作品はミラノの人々に強い刺激をあたえ、作品の成功は彼の名をヨーロッパ中に広めました。続いて《十字軍のロンバルディア人》を1843年2月に上演し成功を見せ、それ以来しばらく祖国愛を素材とした作品を書き、人々の心をとらえました。この傾向はヴェルディの前期の作品に見られます。1844年3月初演の《エルナーニ》も大成功し、愛国的な合唱は人々をわきたたせ、たて続けに《ジャンヌ・ダルク》(1845)などを発表し大喝采をうけました。
1847年3月、フィレンツェでシェイクスピアの悲劇《マクベス》を初演して成功し、この作品より愛国心にうったえる作品から抜け出て、ドラマ作品を目指します。この作品の成功により、当時ヨーロッパきっての名プリマ・ドンナ、ジェニー・リンドのために新作《群盗》(1848)を書き、空前の成功をおさめました。また、《レニャーノの戦い》、《ルイザ・ミラー》(共に1849)、《ステッフェリオ》(1850)を書き上げ、このころ、かねてからヴェルディの支えとなっていたジュゼッピーナと暮らし始め、彼女の愛情により、作曲能力も向上していきました。 1851年3月にヴェネツィアで発表された《リゴレット》により、ヴェルディ自身の個性的な作風を確立し、この作品から成熟期が始まります。そして1852年に《エル・トロヴァトーレ》を完成させローマで初演し、、《リレゴット》におとらぬ成功をおさめました。それに対し、1853年に初演された《椿姫》は、後世の成功が考えられないほど不評でした。しかし、しだいに人気が出て、現在のようにこの作品を上演しない歌劇場がないほどになりました。ついで《シチリア島の夕べの祈り》(1854)、《シモン・ボッカネグラ》(1857)などを作曲し、1858年に作曲した《仮面舞踏会》でさらに円熟を増しました。しかし、この頃は芸術面で敵対する検閲のおどしによって、創作活動はいつもさまたげられていました。
1859年、ついにジュゼッピーナと正式に結婚します。そして1861年、念願であったイタリア国家が樹立し、ヴェルディの創作にも自由がおとずれます。さらにイタリア独立政府のすすめで国会議員の職につき、1865年まで音楽と演劇の改革に力をそそぎました。1861年の作品には《運命の力》、カンタータ《諸国民の賛歌》があり、1867年には《ドン・カルロ》を作曲しました。また、1869年にスエズ運河が開通したのを祝して、カイロの歌劇場のために《アイーダ》を作曲し、この作品からヴェルディの完成期が始まりました。1873年には《弦楽四重奏曲》、翌年には、神のように尊敬していた詩人のマンツォーニのために《鎮魂ミサ曲》を完成しました。それから長い間、作曲活動からはなれ、サン・アガータで田園生活にいそしみました。そして1886年、7年の歳月をかけて作り上げたシェイクスピアの名作《オテロ》を完成させ、イタリア・オペラにまったく新しい風を送り込みました。この作品では、オーケストラと歌のパートの共生がすばらしく、またドラマと人間の両面にわたって、ヴェルディが考える最高の理想が実現されています。それ以来、ヴェルディのシェイクスピアへの思いは深まり 、《ウィンザーの陽気な女房たち》と《ファルスタッフ》を1893年2月に初演し、30回ものアンコールにこたえたと言われます。このころジュゼッピーナの体が弱り、ついに長年ヴェルディを支えてきたプリマ・ドンナは1897年11月に亡くなりました。ヴェルディの悲しみは眼にあまるほどで、《4つの宗教曲》(1898)を書いたあと体が弱り、創作への炎は消えてしまいました。その後も少しずつ体はおとろえながらも、自分が寄付した慈善施設や病院、養老院などに熱心に気を配っていました。そして1901年1月27日、ミラノのグランド・ホテルで上着を着ようとしたままたおれ、天に召されました。87歳、脳出血による死でした。晩年の手記には「私は孤独だ、悲しい、悲しい、悲しい!」と記されていました。ヴェルディが活躍した頃のヨーロッパはまさに動乱のうずの中で、彼のイタリア・ロマン主義はイタリア統一運動と一体化し、多くの名作オペラを生み出し、また、明るく美しく、劇的な迫力にみちた音楽は、多くの聴衆が絶賛しました。しかし、検閲による創作妨害や、聴衆に強い印象をあたえるための作風が、しばしば非難されるなど苦労も多かったが、何よりも、家族を失った悲しみによる孤 独ははかりしれません。彼は伝道することも学説を立てることも、また人を悪く言うこともなく勝ちほこらず、まさに沈黙がヴェルディの心の偉大さ、人間性を物語っています。常にのびのびとした美しい旋律をみがき上げ、不朽の名作を次々と生み出し、民衆に愛されたヴェルディ。葬儀から1ケ月後の2月26日、彼の寄付した「音楽家憩いの家」に改葬され、この時数万人の人々が集まり、900人の合唱団が《ナブッコ》のコーラス「行け、わが思いよ、金色の翼に乗って」を歌って、安らかな眠りを祈りました。



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