Aeolianharp Piano Studio





Aeolianharp Piano Studio News Letter Vol. 2


素敵な出来事

ピアノのこともっと知りたい。

作曲家の気になるお話


素適な出来事


皆さんは、日本の伝統芸能である能をご覧になったことがありますか。面(おもて)を用いた仮面劇で、美しい衣装を身にまとった役者が、するりするりと足を運ばせて、1つの物語の中で演技し、舞いをひろうするものです。私は、9月25日に京都の相国寺でおこなわれた、相国寺創建600年記念の「薪能」(たきぎのう)という、屋外のたいまつの明かりの中で鑑賞する能のチケットを手に入れたのです。当日は、午前中から雲行きがあやしく、ついに午後になると、パラパラと降ってきて、開演1時間前の午後5時には、ついに本格的にふり出して来ました。でも、相国寺さんのご配慮により、ふだん一般には入ることのできない、法堂(はっとう)の中での上演に、きゅうきょ変更になったのです。とても得をした気分でした。さらに、私と一緒に行った京都に住むおばが、相国寺の中にある林光院の田中和尚と知人であったため、寺関係者しか座ることのできない、舞台正面の、前から2列目で鑑賞することができたのです。そのうえ、林光院の中も案内していただき、貴重なものを見ることができました。

さて、こんな夢のような席から見る初めてのなまの能舞台は、最初から感動の連続でした。この日の演目は、一つ目が能の羽衣、二つ目が狂言の察化、三つ目が仕舞の「笠之段」、四つ目が能の「船弁慶」でした。狂言と仕舞については、次の機会にお話します。能は、鎌倉時代に猿楽とよばれる芸能者集団によって生みだされ、こっけいな物まねの猿楽芸の中から、こっけいな要素を取りのぞき、そのかわりに、当時流行した歌謡や舞曲を取り入れ、歌や舞いによる物まね芸につくりあげたのが始まりです。室町時代に、観阿弥(1333―84)と、世阿弥(1363―1443)父子が、時の将軍足利義満の後援をうけ、能を大成しました。この父子のつくりあげた、新しいリズミカルな曲と、優美でつややかな世界により、能の基本的なかたちは、ほぼ完成されました。

鑑賞していてもっとも強く感じたことは、シテ(主役)の少しの手の動きや、舞いの動きの流れによって、面の表情が、喜怒哀楽それ以上の深みをおびてくることです。これが仮面劇の醍醐味なのでしょう。そして、観阿弥、世阿弥父子によって大成され、600年もの長い年月をへても変わらず、心を魅了し続けるのは、芸術として最高のものであるからにほかなりません。


ピアノのこともっと知りたい。


ピアノは、ほかの伝統的な楽器にくらべて歴史は短いですが、18世紀半ば以来一度として楽器の王様としての地位を譲ったことはなく、どんなに音楽に対する好みが変わっても、いつの時代でも、多くの人に愛され続けています。その主な理由を10項目挙げてみました。

1、 あらゆる楽器のうちで、ピアノの作品がもっとも多く、偉大な作曲家たちが、数えきれないほどのすぐれた作品を残しています。そして、ピアノ曲以外の作品を、ピアノのために編曲したものも、ほかの楽器にくらべて多くあります。
2、 ピアノソロだけでなく、ピアノコンチェルトや、トリオ(三重奏)、クワルテット(四重奏)、クインテット(五重奏)、また、バイオリン、チェロ、フルートなどとのソナタに使われたり、歌の伴奏など、ほかの楽器などとむすびついた使用範囲も広いです。
3、 2台のピアノによる、ピアノデュエットとしても楽しめます。
4、 音楽教育のための楽器として、もっとも適しています。
5、 耐久性にすぐれていて、しっかり整備していれば、数十年使用することができます。
6、 さまざまな大きさ、形態のものがあり、楽器として使用するほかに、インテリアとしても存在感があります。
7、 パイプオルガンや、電気電子楽器のように、電源などの外部からのエネルギーを、必要としません。
8、 通常のピアノは88鍵で、その音域は7オクターブ以上と、ほかの楽器にくらべ、低音域から高音域まで、非常に広いです。
9、 ペタルを使用したとき、音色の変化がとても多彩です。
10、 メロディー、ハーモニー、リズムなどの演奏が自由自在で、あらゆる形式の音楽を楽しむことができます。

まだまだ、あげていけばきりがありませんが、ピアノのすぐれた特徴を、あらためて知っていただけたと思います。この特徴を生かして、みなさんのピアノの世界をどんどん広げていってください。



作曲家の気になるお話


ショスタコーヴィチ Dimitry Dimitrievich Shostakovich (1906〜1975)

平成9年9月6日、私の母校同志社女子大学のオーケストラが、京都から浜松にやって来ました。そして、素晴らしい演奏をきかせてくれました。アクトシティー浜松の大ホールには、1,300人のお客様がつめかけ、女性ばかりのオーケストラにおしみない拍手を下さいました。とくに、3曲目に演奏したショスタコーヴィチの《交響曲第5番》は、大曲で難易度も高く、期待して聴きに来られた方も多かったと思いますが、予想以上にダイナミックで、作品をよく理解した演奏に、わが後輩ながらおどろかされました。今回は、このショスタコーヴィチについて、とくに彼がその生涯に作曲した15の交響曲を中心に、お話しましょう。

ショスタコーヴィチは、1906年9月25日、旧ソ連のぺテルブルグ市(レニングラード市)に生まれました。父は鉱山技師で、母は、ぺテルブルグ音楽院出身のピアニストでした。その母に9歳からピアノのレッスンを受け、13歳でぺテルブルグ音楽院に入学しました。入学試験に際して、音楽院長で作曲家のアレクサンドルグラズノフは、ショスタコーヴィチを「音楽の神童」と呼ばれるモーツアルトと同水準と評価し、入学後は父親のように力をかしました。この頃から、すでに作曲を始めており、世の中がロシア革命の頃であったため、社会的事件に関心を持ち、実生活を表現しようという気持ちが作品にあらわれています。そして、1925年に、卒業作品である《交響曲第1番》を完成させました。この作品には、19歳の情熱や揺れ動く心、そして、社会への熱っぽい思いが表現されています。

そして、そこにはすでに、ショスタコーヴィチの音楽の特徴である悲劇的な感じや、不安な心の動きが表現されています。また、時はまさに、革命と芸術が互いに刺激しあっていた時代でしたが、まだ自由な雰囲気がみなぎっていました。そんな中、革命後の熱気と新しい感覚にあふれる《交響曲第2番》(1927年)、《交響曲第3番》(1929年)が作曲されました。 1924年に再開した西ヨーロッパとの交流により、彼は、それまでのロシア音楽にない、ヨーロッパ音楽の技法を学び、音の世界を広げていきました。その特徴は、ピアノ小曲集《格言》、《交響曲第2番》、《交響曲第3番》、オペラ《鼻》、《交響曲第4番》に見出せます。とくに、1936年に作曲された《交響曲第4番》には、哲学的な構想が見られ、最初の本格的な交響曲と言われています。ところが、この第4番を作曲中に、同じころに作曲されたオペラ《ムツェンスク郡のマクベス夫人》に対するきびしい批判が発表され、大きなショックを受けました。そのため、せっかく完成していた第4番が、そのころの国の思想と異なった表現であったため、「危険をおかしたくなかった。」という理由で、初演をキャンセルしてしまいました。そして、その数ヶ月後に、代表作である《交響曲第5番》(1937年)を完成しました。この作品の作曲時期は、世の中が第2時世界大戦に向かっている不安な時期に当たります。そのため、この作品は、作曲者が言うように、「国の体制に賛成し、悲劇的な緊張が、第4楽章で喜びへと解放されている。」という、表現がされています。しかし、ショスタコーヴィチの死後に出 された本で、彼は、「喜びなどはない。そこにあるのは、強制された歓喜だ。」と、第5番の本当の姿を証言しています。この作品の魅力は、まさにこの2面性ではないでしょうか。そして1939年には、《交響曲第6番》を作曲しましたが、大作である第5番の後であたっため、当惑と失望をもって迎えられました。《交響曲第7番》は、第2次世界大戦の始まった1941年、ナチス軍に包囲されたレニングラードで、作曲されました。演奏会の様子は、戦争中であったため、ラジオを通してイギリス、アメリカに中継され、多くの反響が寄せられました。この作品は、戦争初期に作られた、とてもドラマティックな交響曲といえます。それに対して、1943年に完成した《交響曲第8番》は、戦争のもっとも奥深い、内面的な悲劇を感じさせる作品です。(下へつづく)そして、終戦後の1945年に発表された《交響曲第9番》は、演奏時間わずか22分という、ごく小さな室内交響曲で、勝戦をたたえる作品としては物足りないものだが、彼の優れた芸術性を見出せる作品です。また、《交響曲第10番》(1953)は、時の革命家スターリンを描いた作品とされています。《交響曲第11番》(1956―57)、《交響 曲第12番》(1960)は、革命の歴史と関係があるとされ、ロシアの歴史の中で繰り返される悪事を、音楽を通して表現しています。《交響曲第13番》(1961―62)は、ナチズムやスターリンの独裁主義による、多くの犠牲者のためのレクイエム(死者の魂をしずめる曲)とされる作品です。《交響曲第14番》は、なんと全11楽章で構成されていますが、1つ1つの楽章は小さく、11の多彩な場面と主人公をもった作品です。その内容は、生命をおびやかすものへの抗議などで満ちています。そして、ショスタコーヴィチが、死の4年前の1971年に、病気をおして作曲した最後の交響曲《第15番》が発表されました。この作品について彼は、「音楽についてのどんな言葉も、音楽そのものが与えるほど強く、聴衆の心に訴えることはできない。」と語っています。そして、「必要なのは、勇敢な音楽である。

まさに、それが真実の音楽だという意味である。」とも、、、。まさに、ショスタコーヴィチは、世の中が最も暗かった時代のただ中に生まれ生涯を終えた偉大なる作曲家といえましょう。(1975年、心臓病で死去。)国の体制や、社会情勢にほんろうされたが、常に作品には強いメッセージが秘められています。「私の音楽には、私たちの時代の複雑で悲劇的な様相が、常にうつし出されている。」と、彼が語っているように。ソ連邦という国家は、74年の歩みを終えて幕を閉じましたが、この激動の時代にショスタコーヴィチによって残された「真実のシンフォニー」は、これからも私たちの心にうったえかけ続けるでしょう。



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