Aeolianharp Piano Studio





Aeolianharp Piano Studio News Letter Vol. 5 (Jan. '98)


素敵な出来事

ピアノのこともっと知りたい。

作曲家の気になるお話


素適な出来事


大草原を走り抜ける美しい馬。そして、どこからともなく流れる馬頭琴の音色…。一度もモンゴルをおとずれたことのない私には、こんな光景が頭に浮かびます。実際、モンゴルは、このような光景が果てしなく広がっているそうです。

先日、浜松市楽器博物館のレクチャーコンサート「スーホの白い馬/草原の風・モンゴルの馬頭琴」を聴きに行きました。「スーホの白い馬」と言えば、小学校の国語の教科書で勉強された方も多いと思いますが、あの物語の舞台になっているモンゴルの馬頭琴奏者が、素晴らしい演奏を聴かせてくれました。はじめてなまで聴く馬頭琴の音色は、民族楽器が持つ素朴さと、つつみこむような雄大さに満ちていて、語りかけられているような気持ちになります。その演奏を聴いていると、なつかしい気持ちになりました。

馬頭琴奏者の李波(リポー)さんは、1955年にモンゴルに生まれ、10歳から馬頭琴を習い始めたそうです。そして数々のコンクールで優勝し、馬頭琴奏者の第1人者として、その演奏は馬のように軽やかで、流れる雲のようにやわらかであると言われているそうです。まさにその通りの演奏でした。95年からは活動の場を日本に移して、演奏会をしたり、教室を開いたりしているそうです。この日は、自然を表現した曲、歴史的な内容の曲、馬を題材にした曲など、10曲ほど演奏されましたが、最後の「スーホの白い馬」は、リポーさんが、日本の子供のために作曲した曲だそうです。この曲は叙事曲で、物語の内容のままに演奏が進むので、物語の光景がまぶたにうかび、聴いている私たちは自然にひきこまれていきました。大自然をこよなく愛し、自然と共存して暮らすモンゴルの人々。季節によって住む場所を移動する彼らにとって、馬をはじめ、牛、ラクダ、山羊、羊という動物も、人生を共に過ごす大切な仲間です。そんな生活から生まれたモンゴルの音楽は、私たちの生活の原点を大切にした音楽なのです。

「スーホの白い馬」(内モンゴルの民話)

モンゴルの大草原に、スーホという貧しい羊飼いの少年がいて、ある日生まれたばかりの白馬を助け、大切に育てた。春の日、殿様が競馬大会を開き、1位のものと娘を結婚させると言う。スーホは白馬に乗り1位になるが、殿様は結婚させず、スーホから馬をうばう。ある日、殿様が白馬にまたがると馬は殿様を振り落し、怒った殿様は馬を殺そうと弓を射る。矢がささった馬は、力をふりしぼってスーホのもとに帰るが、スーホの腕の中で死んでいく。ある夜、白馬はスーホの夢の中で、「自分のからだで楽器を作ればすっとスーホのそばにいられる。」と言う。スーホは白馬の言うとおり楽器を作り、それをひいては白馬を思い出した。



ピアノのこともっと知りたい。


19世紀初めにベートーヴェンは、ピアノ音楽において、芸術性の高い作品を作るという姿勢や、高いテクニックを必要とする演奏法をほぼ確立しました。それを彼の弟子たちが受け継ぎ、完成されつつあったピアノとともに、発展していきました。

 さて、ショパンは1832年にパリにデビューしましたが、彼もその時代のほかのピアニストたちと同様に、自作をひくという形でピアニスト活動をしていました。しかし、彼の作品には独特の書法が示されています。ショパンの演奏活動の場は、貴族や富豪の邸宅でのサロン(客間・大広間)でした。そのため、彼の作品にはその場の雰囲気に合った、個人的な情緒が記されていて、ロマン主義的な性格を強く見せています。彼のノクターンは、甘美な情熱と静けさを合わせ持ち、すばらしいジャンルとして仕上げられており、またエチュードも練習曲のわくをこえてさまざまな表情を持ち、演奏会用という次元に持ち込むことに成功しています。それは、ショパンの演奏の特徴がピアノを歌わせて弾くということであり、無数の装飾音を用いた旋律や、ペダルの使用による効果が、その世界をいっそう高めているのです。ショパンの音楽にはペダルの使用が不可欠ですが、この時代にやっと、現代のペダルに近い物ができるようになりました。モーツァルトの時代のペダルは、ひざペダルと呼ばれる物で、鍵盤の下側にあるバネ仕掛けのペダルを、ひざで持ち上げるようにして使用しました。1818年に、イギリス のブロードウッド社からベートーヴェンにおくられた新しいピアノには、2本のペダルがあり、性能的にはほぼ現代のペダルと同じであったと考えられます。

また、鍵盤の数もベートーヴェンの晩年には6オクターブ半になり、1840年代には7オクターブになっています。(7オクターブ半になったのは1890年代。)そして、ピアノの構造的にも、1830年前後には鉄骨などを用いて、頑丈さをプラスさせていきました。とくににペダルの進歩は、ピアノを歌わせて弾くショパンにとって、彼の目指した音楽の世界を広げる引き金になったといっていいでしょう。ペダルをふくめた装飾的な書法により、ショパンの音楽は高められ、ロマン派ピアノ音楽の典型とされています。そして、文字どおりピアノの詩人と呼ばれているのです。さらにリストのあの作品では…。                        

次回号につづく。お楽しみに。


作曲家の気になるお話


ラヴェル Maurice Joseph Ravel (1875〜1937)

スイスの時計職人と、かのロシアの作曲家ストラヴィンスキーが評した人物。それは、20世紀初頭に活躍したフランスの作曲家、モーリスJラヴェルのことです。彼がなぜそう言われるかというと、その作品が、世界一正確と言われるスイスの時計のように細かい計算の上で作られていて、なおかつ美しく繊細な面をあわせ持つからです。

ラヴェルは1875年3月7日に、鉄道技師の父親とスペインのバスク地方出身の母親の間に生まれました。音楽愛好家の父の影響で、7歳からピアノを、12歳で和声法を学び始め、14歳でパリ音楽院に入学しました。1893年には最初の作品であるピアノ曲≪グロテスクなセレナード≫を作曲しています。このころの作品には、エリック・サティーの神秘的なハーモニーと、エマニュエル・シャブリエの南国的な陽気さの影響が見られます。1897年に、ガブリエル・フォーレに作曲を学ぶようになり、このころから印象派の文学を好むようになります。フォーレの自由な教授法のもとで、若いラヴェルは、作曲家としての自由と、音の色彩に対する才能を目覚めさせていきました。そして、フランス人特有の古典的ともいえる、ととのった形式と、新鮮で大胆な色彩の和声的感覚を結び付けながら、独自のスタイルを作りつつありました。作曲家としてデビューしたのは、まだ学生であった1898年に、国民音楽協会でピアノ曲≪耳で聞く風景≫が演奏された時です。学生時代のその他の作品は、管弦楽≪シェエラザード≫、歌曲≪クレマンマロの2つの風刺詩≫(共に1898)や、有名なピアノ 曲≪亡き女王のためのパヴァーヌ≫(1899)などがあるが、当時の批評家にはあまり認められませんでした。こうした評価にむきになり、1901年から4年続けてローマ大賞に挑戦するが、審査の不正などもあり、失敗に終わりました。しかし26歳ですでに、傑作と言われるピアノ曲≪水の戯れ≫(1901)を作曲し、新しいスタイルと印象派風の和声を作り上げ、ピアノ音楽のテクニックに新しい道をきずきました。そして1902〜03年に書いた≪弦楽4重奏曲≫は、恩師フォーレにささげられ、この作品で、フランス第1流の音楽家の座につきました。1902年にはクロードドビュッシーに出会い、彼のオペラ≪ぺレアスとメリザンド≫に深い感動を受けます。1903年の歌曲≪シェエラザード≫にはドビュッシーの影響が見られ、生涯ドビュッシーを尊敬し続けました。このころラヴェルは、その作風からドビュッシーの忠実な後継者と言われたが、その作品における違いは明らかです。ドビュッシーには、象徴派的、印象派的な天性の美的センスが強くあり、その音ひとつひとつは細胞のようで、色あざやかな音色として豊かに広がります。ラヴェルはむしろ、構成や方法を駆使することを 第一とし、その音楽は、良く言えば計算しつくされた魅力を持つし、悪く言えば人工的な印象を強く与えます。こうした技術的な手段によって表現される高度な美学はまさに古典主義そのものと言えましょう1905〜08年の3年間にラヴェルはピアノ曲≪ソナティナ≫≪鏡≫≪夜のガスパール≫バレエ音楽≪マ・メール・ロア≫歌曲集≪博物史≫管弦楽≪スペイン狂詩曲≫、歌劇≪スペインの時≫などを作曲し独自のスタイルをはっきり表現するようになりますその特色のひとつは、感情の表出よりも、フランス古典の伝統につながる描写に重点をおいている所で、≪博物史≫では、言葉ひとつひとつに細かい描写的なニュアンスが見られ、とても優雅です。まさにそのころ、作曲家としての完成期にふみ入れます。そして1911年のピアノ曲≪優雅で感傷的なワルツ≫では、するどく明確な形で、独自の新古典主義の作風を見せ、傑作と言われる歌曲≪ラマルメの3つの詩≫(1913)は、非常に複雑な記譜法により、不思議な色彩をはなっています。1914年には《ピアノ三重奏曲》を書き上げるが、時は第一次世界大戦の始まりで、彼も出征しました。2年後に健康を害してパリに戻るが、1917 年1月、過保護のように彼を育てた母を亡くし、失意の日々を送りました。同年、ノルマンディーにひきこもり、大戦に敗れた友人に送るピアノ曲《クープランのトンポー》を書き上げました。また、ラヴェルは1909年、ロシア・バレエ団の主宰者ディアギレフの依頼で《ダフニスとクロエ》を書きました。このころ、同じくロシア・バレエ団に《火の鳥》などを書いたストラヴィンスキーとの交遊が生まれます。そして、再びディアギレフのたのみで《ラ・ヴァルス》(1919)を書くが、このころから彼は、新しい世界へと入っていきます。そこには、計算上で成り立つ新古典主義のすみきった作風はなく、人間的な感受性のままに、ロマンティシズムの方向を見せ始めています。(この傾向は、室内楽《ヴァイオリンとチェロのためのソナタ》や、協奏曲《ツィガーヌ》でさらに強まります。) しかし、この《ラ・ヴァルス》はディアギレフに受け入れられず、以後ディアギレフと交流することはありませんでした。1920年頃、ジャズがアメリカからパリにやって来て、ラヴェルも幻想劇《子どもと魔法》(1920〜25)や《ヴァイオリン・ソナタ》(1923〜27)でジャズの要素を取り入れています。また、室内楽《マダガスカル島の土人の歌》(1925〜26)は、以前からの好みであった、東洋のエキゾティシズムとエロティシズムが取り入れられた自信作です。また、1927年12月にニューヨークに渡り、自作の指揮をして大成功をおさめ、翌年フランスにもどります。そして同年11月に、かの有名な管弦楽《ボレロ》を書き上げ、大成功をおさめ有名人のようにあつかわれるが、シャイで高貴なラヴェルは、世間の波にのまれることはありませんでした。1931年から2年間は自宅にひきこもり《ピアノ協奏曲》や《左手のためのピアノ協奏曲》(共に1931)を作曲し、その後中央ヨーロッパへの長い旅に出ます。そして旅から帰った直後、自動車事故にあい、脳に障害を起こします。そして1937年12月28日、最後の脳の手術もむなしく、モンフォーリ・ラモ リでこの世を去りました。ラヴェルは、作曲時に形式上の制限を自分自身に課すことで、安定した印象を強く与えます。しかし、表現方法は大胆かつ個性的で、計算されつくした中にも情念にうったえかける要素をもちます。それは、母親の出身地であるスペインの影響が大きく、エキゾティックな味を出しています。また、日本の錦絵の熱心な愛好家でもあり、東洋の美術に見られる渋味のある色調と明確な輪郭は、彼のこころみていた芸術と通じます。天才・芸術家・職人―3つをあわせ持ったラヴェルの、かおり高いフランス音楽は、20世紀前半の作曲家にさまざまな影響を与え、今日でも新鮮な古典として、私たちを魅了します。



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