Aeolianharp Piano Studio





Aeolianharp Piano Studio News Letter Vol. 8 ( April '98)


素敵な出来事

ピアノのこともっと知りたい。

作曲家の気になるお話


素適な出来事


モーツァルト作曲《ピアノ・コンチェルト》第6番と、ヘンデル作曲《コンチェルト・グロッソ》Op. 6の第1番…これらは、来る6月14日(日)のカペラ・アカデミカのコンサートで演奏する曲の中の2曲です。私はピアノ・コンチェルトではソリスト(独奏者)をつとめ、ほかの作品ではチェンバロを担当します。このコンサートに向けて毎日練習にはげんでいますが、オーケストラとの週1回の総合練習は、作品をより深く理解できる貴重な時間です。さて今回は、これらの曲の名前にみられる「コンチェルト」と「コンチェルト・グロッソ」についてお話しましょう。

コンチェルトは西洋音楽の楽曲形態のひとつで、日本名で「協奏曲」です。その語源はラテン語のconcerto=(闘争する、論争する)であったが、同音同綴のイタリア語で「調和させる」、「一致させる」の意味に変わりました。16世紀末から17世紀初頭にかけては、無伴奏声楽曲に対して、楽器伴奏つきの声楽曲をコンチェルトと呼びました。18世紀はじめに、1つ(あるいは2つ、3つ)の独奏楽器と管弦楽が協奏するという、今日一般的に解釈されているかたちになり、その後ヴィヴァルディやバッハにうけつがれました。のちの古典派協奏曲は、モーツァルトの50曲もある作品で完成され、ベートーヴェンやロマン派にうけつがれました。コンチェルトでの独奏楽器は、ピアノ、ヴァイオリン、ヴィオラやチェロなどをはじめに、各種の管楽器も使用されます。

コンチェルト・グロッソは「合奏協奏曲」と訳されますが、コンチェルトが今日のものに完成される前の最初のかたちであり、バロック時代の協奏曲のもっとも重要な形式です。これは、管弦楽を独奏楽器群(コンチェルティーノ)とオーケストラ全体(コンチェルトグロッソまたはトゥッティ、リピエーノ)の2つのグループに分け、この2つの対比によって構成されるのが普通です。多くの場合、コンチェルティーノは2つのヴァイオリンと通奏低音(作品を通して休まず演奏しつづける低音部の楽器。チェンバロ、コントラバスやチェロなど。)からなっており、リピエーノは弦楽合奏(通奏低音つき)であったが、のちに管楽器も加えられるようになりました。

言うなれば、コンチェルトグロッソとコンチェルトは親子のようなものですね。コンチェルトグロッソは小編成と大編成の対比を実現し、コンチェルトは主役の楽器とオーケストラのかけあいの中で、主役の素晴らしいところをきわだたせることに成功しています。時代の趣向や、編成の工夫によって発展してきたこれらの形式の作品において、演奏家ならだれでもその中に加わり、又、主役をつとめたいものです。私はとても幸運です。


ピアノのこともっと知りたい。


ピアノの先祖と言われる楽器Part 1 ハープ

弦楽器は、狩猟用の弓から発達したと言われ、古代の楽器ではハープ、リュート、リラおよびチターなどがあるが、これらのうちでもっとも古いのはハープです。

現存の最古のものは、大むかしのメソポタミアのシュメール人がチグリスおよびユーフラテスの河の下流に築いたウルの都から発掘された、紀元前2500年の「シュバド女王のハープ」とよばれる、黄金の牛の首が付いたハープがあります。また、エジプトのピラミッドの壁面などに残されているハープは、紀元前2723〜2463年と言われているし、古代ギリシャのハープは紀元前450年頃と言われます。

ハープはふつう47本の弦を持つ発弦楽器(弦をはじくことで音を出す楽器)で、各弦は全音階的に変ハ調に調弦されます。現在、管弦楽に使用されるハープは、1810年にフランス人のエラールよって開発されたダブル・アクション・ハープとよばれるもので、7本のペダルを持ちます。ひとつひとつの同じ音のあらゆる弦に作動し、ペダルをふまない状態で<♭>(たとえば変ハ)の音となり、1段階ふむと<>(ハ)の音となり、さらにもう1段階ふむと<#>(嬰ハ)の音になります。

ハープは楽器そのものが優雅な姿かたちの上、美しい装飾を持ち、演奏家が肩で支えながら指先でやさしく触れるようになんとも美しい音色を奏でることから、非常におしとやかな女性をイメージさせますが、実際はかなりの体力を使う楽器です。ハープは思いのほか重量で肩にはかなりの負担がかかります。そして、演奏家の美しいドレスにかくれた足は、7本のペダルを駆使して、ハープ特有の美しい音色を出すのに大忙しなのです。まさに、水上で優雅にただよう白鳥が、実は水面で必死に水をかいているといった様子なのです。

弦の振動を発音体とするという点でピアノを考えた場合、ハープは直接の先祖ではないにしても、はるか古代から深いつながりのある楽器としてとらえられています。そして、最近では若手演奏家が非常に注目されており、ブームになりつつある楽器の一つです。


作曲家の気になるお話


ヘンデルGeorgFriedrichHandel (1685〜1759)

バロック音楽の巨人としてバッハとならんで音楽の歴史に威厳を残した人物G.F.ヘンデル。その世界はいっさいの先入観を必要とせず、真白な心のままに、音の美しさの中にひたることができます。私は、昨年12月のヘンデルの《メサイア》の演奏会に続き、この6月のカペラ・アカデミカの演奏会で《コンチェルト・グロッソ》Op.6の1番を演奏する機会に恵まれ、大好きなバロック音楽と向き合う、嬉しい毎日です。今回は、オペラとオラトリオにもっとも力をそそいだヘンデルの、「劇場音楽家」としての生涯をたどります。

バッハに先立つこと約1ケ月、1685年2月23日、中央ドイツのハレの町にヘンデルは生まれました。この地は、バッハの生まれたアイゼナハとは直線距離で約130kmの所で、バッロク音楽の最後をかざる2人の大作曲家が、同じ年にほぼ同じ地域で生を受けていたことになります。しかし、バッハは音楽一家に生まれ、音楽の道に進むことは当然のことだったようですが、ヘンデルの父親は宮廷つきの医師で、最後まで息子が音楽にたずさわることに反対しました。しかし、ヘンデルはその反対を押し切って、自らの道を歩み始めます。

ヘンデルは7歳のとき、ハレのすぐれた音楽家ツァッハウの指導を受け始め、その後この町の革命派教会のオルガニストとして活躍します。1703年17歳になるとハンブルグに行き、カイザーの元でハンブルグ・オペラのヴァイオリン奏者となり、のちにチェンバロ奏者に昇格しました。また、1704年には、《ヨハネ受難曲》を作曲し、翌年には最初のオペラ《アミルラ》を上演し、成功をおさめました。同時期にオペラ《ネロ》(1705)や《フロリンドとダフネ》(1705頃)を次々に生み出しました。

しかし、ハンブルグでのヘンデルの人気は次第に下がり、ハンブルグ・オペラに見切りを付けると、1706年末、オペラの本場イタリアへと旅立ち、ローマ、ヴェネツィア、ナポリなどを訪問しました。また、イタリア音楽界の大御所たちと知り合い、すぐれたオルガン、チェンバロ奏者として歓迎されました。そして、イタリア的なオペラ《ロドリゴ》(1708頃)や《アグリッピーナ》(1709)を発表し、イタリア人の熱狂のまとになりました。また、この地では数多くのイタリア風カンタータや、最初のオラトリオ《復活》(1708)などを作曲しました。このイタリア時代、ハイドンはまだ20代前半の青年でしたが、オペラの本場での大成功は、彼の輝かしい音楽家人生の大きなステップとなりました。

1710年、ドイツのハノーヴァー宮廷楽長に推薦され、この地にうつり住みます。ほどなく、この職務があるにもかかわらず、当時イタリア・オペラが大流行していたイギリスに渡り、1711年、26歳のときにロンドンでオペラ《リナルド》を発表して大成功をおさめ、長くイギリスに定住することになります。このヘンデルの態度はハノーヴァー選帝候の目には裏切りにうつり、ヘンデルは不安な日々を送ります。おりしも、イギリスのアン王女が1714年に死亡し、ハノーヴァー候がジョージ一世として英国皇帝の座につくことになり、ヘンデルは宮廷から遠ざけられる結果となりました。しかし1717年、国王がテムズ河で舟遊びをしたおりに、ヘンデルは組曲《水上の音楽》(1717)を演奏し、これが王に気にいられ、このことがきっかけで王と和解したという、有名なエピソードがあります。

その後ヘンデルは、イギリスでオペラ作曲家として歩き出し、1711年から41年までの30年間に36曲のオペラを作曲し、上演しています。主なものは《忠実な羊飼い》(1712)、《ラダミスト》(1720)、《ジュリアス・シーザー》(1724)、《クセルクス》(1738)などで、彼はこれらを驚くほどのスピードで作曲しました。また、1725年には、イギリスの市民権を得て、作曲家としてばかりでなく、指導者、歌手、劇場支配人としても活躍し、オペラ界に深くのめり込んで行きます。しかし、イタリア人音楽家との対立や歌手たちの横暴、外国人に反発するイギリス人感情、宮廷を中心に起こった政治的陰謀などの種々の争いにまきこまれ、ヘンデルは健康を害し、高血圧からくる右手麻痺を起こします。そして1737年、ドイツのアーヘンでリハビリにはげみ、持ち前の強い意志と活力で同年10月末にはロンドンにもどりました。

ロンドンにもどったヘンデルは、イタリア・オペラが必ずしもイギリス人の精神に根差したものではないと気付き、その後オラトリオの作曲に専念するようになります。1739年、54歳に初演された《サウル》(1738)、《エジプトのイスラエル人》(1739)に続いて、次々とオラトリオが発表されました。とくに、1741年には不朽の名作と言われる《メサイア(救世主)》が作曲され、ヘンデルの名声はもはやゆるぎのないものになりました。この作品は1743年にロンドンで演奏され、演奏が中心的な合唱曲《ハレルヤ・コーラス》に進むと、臨席中の国王は感激のあまり起立し、ほかの聴衆もこれにしたがって起立したと伝えられています。(この現象は、現在でも習慣になっています。)また、この時代には《コンチェルト・グロッソ》Op.3(1733)とOp.6(1739)や、《チェンバロとオルガンのためのコンチェルト》Op.4(1738)、《トリオ・ソナタ》Op.5(1739)などの器楽曲があらわれます。また、デッティンゲンにおけるイギリス軍のフランスに対する勝利を記念する宗教曲《デッティンゲン・テ・デウム》(1743)を作曲し、その後はオラトリオ《セメレ》(1744)、《ヘラクレス》(1745)、《アレク サンデル・バールス》(1748)などを作曲し、これらのオラトリオにより、貴族だけではない新しい階級の心をつかみました。またこの時期に管弦楽《王宮の花火の音楽》(1749頃)も残しています。

1751年2月頃、最後のオラトリオ《イエッタ》の作曲中に左目の視力が低下し、苦悩にあえぎながらも8月にはこの作品を完成させました。その後、白内障の手術を受けたが視力障害は残り、57年以後は作曲活動は不可能になるが、オルガン奏者と指揮は続けていました。

1759年4月6日、ヘンデルはメサイアの演奏会の途中にたおれ、自宅にはこびこまれました。そして4月11日、あらかじめ準備していた遺書に「困窮した音楽家とその家族に1000ポンドを寄付する。」と書き加え、3日後の4月14日早朝に脳卒中の発作で74年の生涯を終えました。その遺体はヘンデルの意思にしたがって、イギリス人の最上の名誉とされるロンドンのウェスト・ミンスター寺院に埋葬されました。

生涯独身を通したヘンデルは個人的な情報が非常に少なく、自らのプライバシーを守り、公的生活と私的生活をはっきりと区別していたようです。短気で言葉も乱暴だったようだが人間的ににくまれるタイプではなく、逆にユーモアに満ちた人物だったようです。彼の音楽はバロック的な協奏様式を基礎としながら、つねに肉声に密着し、ダイナミックで簡潔明解な表現により、直接うったえ来るものがあります。彼の音楽家人生はオペラとオラトリオが中心的であったが、とくにオラトリオを、特権階級の音楽ではなく、より劇的で、民衆的なものに押し上げていった偉業は、広くたたえられています。また、何度も体調をこわしたがその度に回復し、作曲や演奏を続けた音楽家魂は、感動にあたいします。



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