Aeolianharp Piano Studio





Aeolianharp Piano Studio News Letter Vol. 15 ( 1999)


素敵な出来事

ピアノのこともっと知りたい

作曲家の気になるお話


素適な出来事


 8月7日と8日、静岡県龍山村でカペラ・アカデミカの合宿がおこなわれました。私が住 んでいる浜北市から朝8時に出発して1時間弱、天竜川上流の秋葉ダムをこえると、今回 私達が練習とコンサートに使わせていただいた龍山村森林文化会館が見えてきます。子供 のころはこのあたりによく家族で足を運びましたが、ひさしぶりに来てみると、この近さ でこれだけの自然があることに感激してしまいました。また、森林文化会館にはパイプオ ルガンやチェンバロがあり、広いジャンルのコンサートに利用できる、木のかおりいっぱい の多目的ホールでした。
 合宿2日日におこなったコンサートでは、10月10日の定期演奏会で演奏する曲のうち、 ガルッピの《4声のための協奏曲》第1番 卜短調と、ヴィヴァルディの《2つのオーボエ のための協奏曲》ニ短調、モーツァルトのピアノ協奏曲第8番ハ長調《リュッツォウ》を 演奏し、私はモーツァルトのピアノ協奏曲でソリストをつとめました。  ところで、この《リュッツォウ》は、1776年の4月、モーツァルト20歳のときに作曲さ れたザルツブルク時代の作品で、当時ホーエンザルツブルク城の司令官だったヨハン・ゴッ トフリート・リュッツォウ伯爵の夫人アントーニエのために作曲されました。夫人はピアノ をたしなみ、モーツァルト父子からレッスンを受けていました。モーツァルトは、この作 品をマンハイム=パリ旅行中にも何度か演奏しており、当時の自信作だったと考えられま す。ちなみに、第1楽章と第2楽章には、モーツァルトが書いた複数のカデンツア(楽曲の 終わりちかくにある即興的な楽句)が残されているが、それはこの作品がモーツァルト自身 によってしばしば演奏されたことを示します。軽やかな協奏風ソナタ形式の1楽章、ソナ タ形式による優美な2楽章、メヌエット風の優雅さただよう3楽章‥ぜひ10月10日にお楽 しみください。


ピアノのこともっと知りたい


ピアノの先祖と言われる楽器 Part.8

クラヴィコード

 クラヴィコードは、12〜13世紀ごろ、ピュタゴラスのモノコードを多く集め、オルガンの鍵盤を付けて作り出された、のちにスクエア・ピアノの原形となった楽器です。音を鳴らす しくみは、鍵の奥に取りつけられた金属の小片が弦をたたくしくみになっています。18世紀 の初期まではフレットが取り付けられ、メロディーを主とした楽器でした。のちに弦の数を 多くしてフレットを取り、5、6オクターブの音域を持つ、性能のすぐれたものが登場しました。
 クラヴィコードは音がきわめて小さく、サロン・ミュージックなどにしか使用できなかっ たが、デリケートな表現が非常にすばらしいてす。指の圧力を変えることによって、わずか な音の強弱変化が可能で、ヴィプラート(音を上下にゆらす)効果を出すこともできます。
 クラヴィコードは、16世紀のスペインや17、8世妃のドイツで主に使われたが、「クラヴィコードの指のタッチをマスターするには、15年は必要とする」と主張する音楽家もいたと伝 えられ、非常に繊細な感覚を必要とする楽器です。チェンバロともピアノとも異なる、独特 の味わいを持つこのクラヴィコードのために、バッハの《インヴェンションとシンフォニア》 は書かれたと言われています。


作曲家の気になるお話


リスト Franz Liszt(1811〜1886)

 フランツ・リストの生涯にふれるとき、その旺盛な作曲家・演奏家としての芸術家像を知 るとともに、非常にドラマティックな恋愛小説の「スキャンダラスな主人公・リスト」を知る ことになります。まさにリストの生涯は恋愛事件の連続で、この情熱は「ピアノの魔術師」と 言われた彼の演奏テクニックと、晩年になってもおとろえなかった作曲能力にたえず刺激 を与えていたと思われます。一方、晩年にはそれまでの贅沢三昧の生活をやめ、僧院で聖職 者として暮らしています。ロマン派音楽花ざかりのヨーロッパで、まさに波乱に富んだ生涯 を送ったリストの、芸術とその人間性をさぐってみましょう。
 フランツ・リストは、1811年10月22日にハンガリーのアイゼンシュタット近郊ライディ ングに生まれました。リストの家庭は貴族の出身で、エステルハージ侯爵家の会計係をしていた父親は、ピアノやチェロなどをひき、かなりの知議人でした。母親も音楽を愛し、夫とともに家庭で室内楽を演奏していました。ひとりっこのリストは6歳でピアノを習い始め、その天才的な演奏はまわりをおどろかせ、8歳になる前にバーデンで演奏をひろうしています。その後、一家はウィーンにおもむき、リストは当時有名なピアニストであったチェルニーと サリエリに指導を受けました。また、ベートーヴェンの前で演奏した際には、ベートーヴェンはその演奏に感激して、リストを抱きしめたといいます。
 1823年、13歳のリストはパリをおとずれ、パエールとライヒャから指導を受け、演奏会 でも成功をおさめ、このころ作曲も始めています。天才少年リストの名は知れわたり、その後 ロンドンにも3度でかけています。その間、フランスとスイスの各地にも演奏してまわったが、あまりの多忙のため父親は1827年8月28日に世を去り、そのショックのため3年間苦し い日々を送ります。また当時、リストは大臣サン・エリックの令嬢カロリーヌと恋愛をして いたが、カロリーヌの父親に仲をひきさかれ、いっそううつ状態がひどくなります。しかし、 この時期に読んだ文学書と宗教書は、のちの彼の宗教生活と交響詩の創作のみなもとになりました。またこのころ、当時有名なヴァイオリニストだったパガニーニの演奏に感激し、「僕はピアノのパガニーニになるか、さもなければ気ちがいになる」とまで言っています。
 リストの演奏が新たな人気を得てパリの話題を呼んだ1834年、リストはその地で社交界の貴婦人マリ・ダグー伯爵夫人と知り合いました。彼女は20歳年上の夫とのあいだに3人の 子供がいる、才色兼備の女性で、彼女のサロンはパリ・サン・ジェルマンかいわいの貴族たち であふれ、芸術、音楽、文学、政治など、豊富な話題と上品さで社交界でも高い評価を得てい ました。リストとダグー夫人はたちまち親しくなり、1835年8月にスイスにかけおちします。 この行動はパリで大スキャンダルになり、リストは非難の声をあぴました。二人はジュネーブに居をかまえ、スイスやイタリア各地を旅行し、リストはピアノ組曲《巡礼の年》第一年 《1835〜36)、第二年(1838〜39)などを作曲しています。また各地で演奏会を開いて人気は広がり、ダグー夫人はリストにいろいろと助言を与えました。また二人のあいだには 二女一男が生まれ、次女のコジマはのちにヴァーグナーの2度目の妻になった人です。また このころ出版者のリコルディと知り合い、晩年のリストの作品の多くが彼の出版社から印刷 されました。やがて、リストの演奏旅行による長期の別居やさまざまな食い違いが原因で、1839年にダグー夫人との仲にみぞができ、44年に二人は完全に別れました。
 リストは非常に派手好きで、自分の邸宅を芸術品でかざり、多くの客をもてなすのを好ん だが、慈悲深く包容力があったと言われ、自分のみとめた才能にはおしみなく援助し、無報 酬で慈善事業のために演奏することも多かったようです。1847年の2月、ロシアのキエフで 慈善演奏会を開いた時、ポーランド出身のカロリーヌ・ザイン・ヴィトゲンシュタイン侯爵 夫人から多大な援助金を受けたことから、二人は愛し合うようになります。カロリーヌは繊 細かつ知的で、音楽の深い教養がある女性でした。夫と子供がある身だったが、やがて自分 の娘をつれてリストとの生活を始めます。彼女はリストの作曲に正しい評価を与え、リストに演奏生活を打ち切って作曲に専念するようにすすめ、リストは47年7月のエリザベトグ ラートの演奏を最後に引退します。しかし、二人が結婚するには夫人の正式な離婚成立が必 要で、この難題の解決のためこ人はワイマールに居をうつし、結婚に向けて力を冬くしまし た。ワイマール時代の1848年から60年には、12の交響詩、ピアノ曲《超絶技巧練習曲》(1851)、ピアノ・ソナタ《ロ短調》(1852〜53)、交響曲《ファウスト》(1854)、《大 ミサ曲》(1855)、交響曲《ダンテ》(1855〜56)、その他多くのピアノ曲や歌曲など、リス トの作品の大部分かつ重要な作品が作曲され、カロリーヌの冬力も大きかったと思われます。
 カロリーヌは離婚を成立させるため、ローマの教帝のもとに向かい、ついに1860年10月 22日を挙式の日に決め、二人は喜びの日を待ちます。しかし、ロシア側の親頚が意義を申し立て結婚はついに不可能に終わり、カロリーヌは失意のうちにリストと別れ、ローマに定住 して神学の道に進みました。1861年にリストもローマに渡り宗教曲をおもに作曲し、また、 修道院に入って、この時からずっと黒衣をまとうようになります。この頃の作品は、宗教合 唱曲《エリザベトの物語》(1857へ62)、ピアノ曲《2つの伝説》(1863)などがあります。
 1869年、ワイマールからの要望にこたえてふたたぴワイマールにもどり、作曲と教師の地 位で名をさらに広め、ピアノ演奏や指揮でも活躍しました。また、世界中から集まった若い 才能にかこまれ、彼らを良心的に援助したが、やはり女性関係においては話題を欠かなかっ たようです。1871年からは、ローマ、ワイマール、ブダペストで毎年定期的に過ごすように なり、ハンガリーの宮廷顧問官やブダペスト音楽院の名誉学長に任命されました。また1879 年10月、アルバーノ僧会員の職に任命され、ここからの晩年は聖務日課書を読み、聖ぺテロ のおつとめに出席し、宗教論をかわしたと言います。1880年ごろからはリストの健康はそこ なわれ始め、ワイマールの自宅で階段から落ちけがをしたが、作曲の力は落ちず、最後の交 響詩《ゆりかごより墓場まで》(1881〜82)などを作曲しました。
 1886年7月20日、波乱の末ヴァーグナー夫人になった娘のコジマに会いに、またヴァー グナーの楽劇《トリスタンとイゾルデ》を聴くためにパイロイトに行くが、すでに病身だっ たリストは着いた夜に熱を出します。それでも24日の《トリスタン》の上演には出かけ、病 状を悪化させてしまい、7月31日午前10時、「トリスタン・・・」という言葉を残して天に 召されました。死因は急性肺炎でした。その翌年、ヴィトゲンシュタイン夫人も亡くなりま した。  リストが音楽史に残した功績は非常に偉大で、まず、演奏家としてまた作曲家として、ピ アノという楽器の性能と表現力を追求し、拡大したことがあげられます。彼のピアノ曲は超 人的なテクニックを要し、おぴただしい数の練習曲はすべて演奏会用で、ショパンとならぶ ロマン派音楽の貴重な遺産です。交響詩の面でも、主題を詩的な内容にしたがって自由に変 化させる新しい形式をつくり、ロマン派時代の交響詩を確立しました。またさらに、母国ハ ンガリーの民俗音楽に素材をもとめ、民謡の芸術的な表現にも力をそそぎました。中でも、 ピアノ曲《ハンガリー狂詩曲》はリストの代名詞のように親しまれている作品です。
 一度も正式に結婚せず、ここには書ききれないほど、多くの恋愛事件の主人公であったリ スト。その亡骸はパイロイトに埋葬され、晩年を過ごしたワイマールの家はリスト博物館と して保存されています。 



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