Aeolianharp Piano Studio





Aeolianharp Piano Studio News Letter Vol. 13 ( 1999)


素敵な出来事

ピアノのこともっと知りたい

作曲家の気になるお話


素適な出来事


 私は先日、静岡県立美術館にジョルジュ・ルオー回顧展を観に行きました。今回は、初期作品から晩年の1950年代の作品までの油彩画を中心に約80点が展示され、ルオー独特の画風をたんのうすることができました。熱心なクリスチャンであった画家ジョルジュ・ルオー(1871〜1958)の作品は、深い安らぎやいつくしみの心を伝えてくれます。ルオーは、キリストや聖母マリアをはじめとする聖書の登場人物や場面だけでなく、身近に目にした貧しい人々、サーカスの道化師や踊り子、娼婦たちを、キリストや聖母をえがくように尊厳ある存在としてえがきました。数年前にも約100点のルオーの作品を鑑賞する機会がありましたが、多くの油彩や水彩、とくに彼の版画には強い衝撃を受けたことをおぼえています。
 
 ルオーは、アンリ・マティスやアルベール・マルケらとともに、ギュスターヴ・モローのアトリエで絵を学びました。20世紀をむかえると、マティスらによるフォヴィスム(単純化と強い色調が特徴の画風)や、ピカソに代表されるキュビスム(立体的な画風)といったさまざまなイズムが生まれ、新しい表現上のこころみが次々におこなわれました。しかしルオーはその中にあって、何にも属さず、宗教画家として独自の世界をえがきつづけました。ルオーは熱心んなカトリック教とでしたが、カトリックという一宗派にとらわれぬ神的存在を人間の中に感じて、その神性を確認するかのように人物をえがいています。そのまっすぐな想いは、打ちひしがれる者への哀しみやいつくしみ、そして静かな安らぎになって表現されています。

 最後に、ルオーの言葉をひとつ「天の下に生きる万物に敏感な芸術家は、このとげとげしい憎悪の時代の真っ暗なやみの中にあっても、安らぎを知らぬ数多くのやつれた顔や曲がった背に会いに行くのだ。目にみえる悲惨、人知れぬ悲惨がかく多くとも、彼は決して絶望してはならないのだ。」



ピアノのこともっと知りたい


ピアノの先祖と言われる楽器 Part. 6

シロフォン

 シロフォンとは打楽器の一種で、いわゆる木琴のことです。かたい木でできた調律された音板()が、長さと厚みの順でわくの上にならべられ、それをばちで打ちならして演奏します。バーのならべかたが鍵盤ににていることから、一説にピアノの元祖ではないかと想像されています。

 シロフォンに属する楽器としては、アフリカ、カンボジアおよびジャワなどでは原始的なシロフォンがあり、またコンゴで生まれ南アメリカで発達したマリンバは、共鳴管をそなえた木琴で、現代音楽には欠かせない楽器です。ほかにも多種類のさまざまな形態もあるが、シロフォンの起源は、アジア、アフリカにあり、非常に長い歴史をもちます。


作曲家の気になるお話


ブラームス Johanes Brahms (1833〜1897)

  このニュース・レターをいつも読んでくれている生徒の真緒さんが、先日ブラームスの伝記を貸してくれました。5年生の彼女が、音楽の演奏以外の面にも興味をもっていることに、とてもうれしくなりました。・・・ということで、今回は真緒さんと私が読んだブラームスの一生を紹介します。ヨハネス・ブラームスは、1833年5月7日、ドイツ北部のハンブルクの貧民街に生まれました。生活は苦しく、父親は小さな楽団のコントラバス奏者として生計を立てていました。幼いブラームスは父親から音楽の手ほどきをうけ、当時ハンブルク第一の音楽家マルクスゼンやその弟子のコッセルからピアノや作曲を学びました。10歳で初めて公開の演奏会に出演し、また13歳の時から家計を助けるために、バーやレストランでピアノを演奏しました。作曲は10歳ころからおこなっていたが、その最初期の作品の大部分は残っていません。また、15歳の時には、最初のピアノ独奏会を開いています。

  1850年に、ハンガリー出身のヴァイオリン奏者レメーニと知り合い、2人で演奏旅行にでかけ、また53年には19世紀最大のヴァイオリンの名手ヨアヒムと知り合い、深い友情が生まれました。ヨアヒムの紹介でリストをたずねるが、リストとうちとけられず、レメーニとここで別れ、その後ヨアヒムの紹介で、デュッセルドルフにあこがれのシューマンを訪ねました。シューマンは、この青い目のハンサムな青年のすぐれた才能を見ぬき、ピアニストの妻クララとともに歓迎しました。また、自らの雑誌でブラームスを賞賛し、彼を自宅に住まわせもしました。翌54年2月にシューマンがライン川に投身自殺未遂をはかり、2年後に亡くなるが、この間ブラームスはシューマン一家の面倒をみて、クララに恋心をいだくようになります。その気持ちは激しい愛情に変わるが、次第に同情的なものになり、さらに音楽家としての尊敬と深い信頼の感情を持って親しく付き合い続けました。

 1857年から59年はハンブルクやデトモルトで過ごし、作曲のほかピアニストや指揮者として活動しました。作品には成熟さが見られ、2曲の《弦楽セレナード》などが作曲されました。また、58年の夏にゲッティンゲンでアガーテ・フォン・シーボルトと恋をし、この恋愛から青年の苦悩をこめた《ピアノ協奏曲第1番》が生まれたが不評で、また恋も終わりました。62年9月にはウィーンに定住を決め、この地で次第に実力がみとめられ、また指揮者として活動しました。65年には母親が亡くなり、これをきっかけに、合唱曲《ドイツ・レクイエム》(1868)を完成し、これが大成功して一段と名声が上がりました。この時期は、ドイツ各地やハンガリーなど多くの地に演奏旅行にでかけています。また、いくつかの音楽学校から教授の申し込みがあったが、これには興味を示しませんでした。71年には合唱曲《運命の歌、勝利の歌》を完成させました。72年2月に父親を肝臓癌で亡くし、失意の中ハンブルクにおもむきました。また、72年秋から75年までウィーンの楽友協会の総務となり、指揮者としても活動したため、多忙で作曲に集中できなかったようだが、創作のために役立つ仕事の上、ブラーム ス自身の名声をより上げることにもなりました。さらにこのころドヴォルザークの才能をみとめ、世にだすために力をつくしました。

 1879年3月に、グレスラウの大学から名誉哲学博士の称号がおくられ、この返礼に管弦楽曲《大学祝典序曲》(1880)を作曲しています。そのころ、ブラームスの音楽とは対象的な派手なオペラで有名なヴァーグナー派の音楽から転向した、ハンス・フォン・ビューローと親交を深めビューローひきいるマイニンゲン管弦楽団と密接にかかわっています。このようにますます活動範囲が広がり、生活は多忙になっていたため、73年から作曲は毎年夏の避暑地で過ごすなかでおこなわれ、この習慣は晩年まで続きました。彼がその地に選んだのは、オーストリアのペルチャッハ、イシェル、スイスのトゥーンなど各地で、これらの地で交響曲4曲や管弦楽曲《ハイドンの主題による変奏曲》(1873)、《大学祝典序曲》、《悲劇的序曲》(共に1880)、《ピアノ協奏曲第2番》(1881)、《クラリネット五重奏曲》(1891)、その他ヴァイオリン曲、ピアノ曲、合唱曲、室内楽など膨大な数の作品を書きました。夏以外はウィーンで過ごしたり、各地に自作の演奏旅行に出かけました。

 1889年、貧民街出身のブラームスを差別視していた故郷ハンブルクから、名誉市民権がおくられ、この返礼に合唱曲《祭典と記念の格言》(1888)をハンブルク市長におくりました。翌90年、弦楽五重奏曲第2番を苦心して完成させてから創作力がおとろえ、なるべく仕事を整理した静かな生活をのぞみ、遺書の作成もしています。ところが翌年3月にクラリネット奏者ミュールフェルトと出会い、その素晴らしい演奏に刺激され、《クラリネット三重奏曲》と《五重奏曲》(共に1891)を完成させました。しかし、1892年から数年は姉のほかビューローなど多くの友人が亡くなり、不幸が重なりました。このころの作品には、ピアノの小品などのピアノ曲やクラリネット・ソナタなどがあります。 1895年はブラームスにとって栄光の年となり、ライプツィヒやマイニンゲンでブラームスの作品の演奏会があり、オーストリア皇帝からは<芸術と科学にたいする勲章>がおくられました。ところが、96年3月26日にもっとも信頼をよせていたクララ・シューマンが卒中でたおれ、5月20日に世を去ります。ブラームスは、クララの死の予感と自分の苦悩をえがいた、聖書をもとにしたオルガン曲《4つの厳粛な歌》を書いたが、クララの死による絶望と疲労などでブラームスの体調も悪くなり、病名は父親と同じ肝臓癌でした。そんな中でもオルガン曲《11のコラール前奏曲》(1896)を書き、その第11曲の《おお世よ、私はお前から去らねばならない(この世に別れを告げよう)》がブラームスの最後の作品となりました。温泉治療などをしたが良くならず、かなり太っていた体はやせていきました。97年3月中旬までは音楽会やオペラに出かけていたが、3月26日にベッドをはなれられなくなりました。そして4月3日朝、見舞い客に「君は親切な人だ。」と言ったのを最後に、2時間後、ウィーンのカールスガッセ4番地のつつましい自宅アパートで63年の生涯を閉じました。盛大な葬儀ののち、4月6日 、遺体はウィーン中央墓地の尊敬する作曲家たちの眠る近くに葬られました。

 ブラームスの音楽は、メンデルスゾーン、シューマンのあとのドイツ・ロマン派の中で、伝統を守る重厚で構成的な様式を持ちます。その叙情性は深く心を動かし、彼がロマン主義的な文学に親しみ、民謡に興味をもっていたことを物語ります。オペラは、良い台本にめぐり会えず一つも残さなかったが、室内楽に重きをおき、いろいろな編成で新しい世界を開拓しました。ピアノ曲にも傑作は多く、最後のオルガン曲も彼の魂の告白と言える作品です。

 貧しい家に生まれた皮肉屋で短気なブラームスは、生涯を通してつつましく暮らし、裕福になっても安食堂で食事をし、つぎはぎの付いたたけの短いズボンをはいていました。田園を愛し、シューマン夫妻を敬愛したブラームスの百周忌にあたる一昨年4月6日、ウィーンの教会ではブラームスのオルガン作品全曲の演奏会が開かれ、ブラームス最後の作品《おお世よ、私はお前から去らねばならない》で静かに会は幕を閉じました。



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