Aeolianharp Piano Studio





Aeolianharp Piano Studio News Letter Vol. 14 ( 1999)


素敵な出来事

ピアノのこともっと知りたい

作曲家の気になるお話


素適な出来事


  去る2月6日、ジャン・ボワイエのオルガンリサイタルを聴きに行きました。場所はアクトシティー浜松の中ホールで、スプリンクラー事故による故障からようやく修復されたパイプオルガンや、電子オルガンの音色を胸いっぱいに楽しみました。

 この日の演奏は、バッハの<<トリオ ト短調>>,<<前奏曲とフーガ ホ短調>>や、フランクの<<コラール第3番 イ短調>>など、オルガン作品の傑作が盛りだくさんのプログラムでした。ボワイエ氏は1948年生まれのフランス人で、数々の栄誉ある賞を受賞し、世界的に活躍されている演奏家です。もともとオルガンが大好きな私ですが、今回の演奏では、オルガンの音色の繊細さと無限と思われるほどの音の広がりを、荘厳な空気の中でじっくり楽しむことができました。

 演奏会の最後に、ボワイエ氏は客席に1人の人物をさがし、その方への拍手を我々聴衆にもとめました。その人こそ、中ホールのパイプオルガンを作られたオルガン建造家パスカル・コワラン氏でした。氏の手がけるフランスのオルガンは、ドイツのオルガンなどとくらべると非常に色彩が豊かなのですが、派手という言葉とはまったく異質の音の重なりや広がりを持ち、大変心地よく鑑賞することができます。

 私は2001年のバッハの<<マタイ受難曲>>全曲演奏に向けて、合唱団と毎週練習を続けていますが、もちろん本番ではパイプオルガンを担当します。この秋から静岡までレッスンを受けに行く予定ですが、期待9不安1の気持ちでおります。早く思いきり演奏したみたい!!!


ピアノのこともっと知りたい


ピアノの先祖と言われる楽器 Part. 7

ダルシマーとサルトリー

 古代にツィターから生み出されたと伝えられる楽器で、ダルシマーとサルトリーがあります。2つは形が似ていますが、演奏方法に違いが見られます。

 ダルシマーは、12世紀にペルシアで生まれ、のちに中国にわたり、中国では洋琴(楊琴=ようきん)と呼ばれ、ヨーロッパでは15世紀にポピュラーになりました。ダルシマーは共鳴板の上に平行に弦が張ってあるしくみで、ひざの上にのせて、弦をばちやハンマーでたたいて演奏します。17世紀にダルシマーの大型楽器のパンタレオンが大流行し、この楽器は弦が186本もあったと伝えられています。パンタレオンは、その表現の素晴らしさや演奏の困難さからピアノの誕生をうながしたと考えられています。

 サルトリーは、とくに14-15世紀にヨーロッパを中心に愛用された楽器で、しくみはダルシマーと同じだが、弦を指またはプレクトラム(つめ)ではじいて演奏します。この演奏方法から、サルトリーはチェンバロの前身と考えられています。  2つの楽器とも、16世紀にクラヴィコードとチェンバロの進出により衰退していったが、現在は民族楽器であるハンガリーのツィンバロン、オーストリアのツィターとして生き残っています。


作曲家の気になるお話


ベートーヴェン Ludwig van Beethoven (1770-1827)

 
激しさ、苦悩、神秘...これらの言葉から連想できる作曲家といえば、べートーヴェンではないでしょうか。ヨーロッパ音楽の中心がウィーンにうつった時代に、ハイドン、モーツァルトと同じく、古典派音楽を完成させ、独自のドラマティックな世界を作り上げたベートーヴェン。彼の残した膨大な作品は、その過酷な人生を雄弁に語ります。

 1770年12月16日、ルードヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンは、ドイツのボンに生を受けました。父ヨハンは宮廷楽団のテノール歌手という職を持っていましたが、酒飲みで人格的にかなり問題があったようです。幼い息子のたぐいまれな楽才に目をつけ、4歳の時からハードなピアノの練習をさせ、7歳にしてケルンで演奏会を開き、舞台に立たせました。このころから、べートーヴェンは宮廷音楽家から指導を受けるようになり、1784年から正式な宮廷オルガニストとして任命されました。一方、ライプツィヒから来たクリスティアン・ゴットリープ・ネーフェから正しい作曲の指導を受け、ピアノ曲<<ドレスラーの主題による変奏曲>>(1782年)など初期の作品が生まれました。
 1787年春、ベートーヴェンはボンをたって遠くウィーンを訪れ、あこがれのモーツァルトに会いに行きます。モーツァルトはベートーヴェンの演奏にあまり興味を示さなかったが、すぐれた即興演奏には感心したと伝えられています。同年7月、母親の急病の知らせでボンにもどるが、母親はまもなく死亡し、大きなショックを受けます。さらに父親が職を失い、17歳のベートーヴェンは家族をやしなわざるをえなくなり、彼の苦難の人生は、この青年期にすでに始まりました。その後5年間をボンで過ごし、ピアノ曲、室内楽、カンタータの部門にわたって多くの作品を残したが、今まであまり取り上げられませんでした。しかしこれらの中には、のちのウィーン時代の初期、中期に改作されたものも多く、見逃せません。
 1792年春にヨーゼフ・ハイドンがボンを訪れた際、べートーヴェンをほめたのがきっかけとなり、宮廷から学資をもらってふたたびウィーンにたちました。ウィーンを訪れたベートーヴェンは、モーツァルトがすでに死亡していたこともあって、ハイドンの門をたたき約1年間教えを受けました。すでに60歳をすぎた大家ハイドンにとって、野望に満ち、挑戦的な性格のベートーヴェンはあつかいにくい弟子であったようで、2人はあまりうまくいかなかったようです。そこで、ベートーヴェンはハイドンにかくれて、ヨハン・シェンクやアルブレヒツベルガー、アントニオ・サリエリなど、第2愛3...の先生を持つようになりました。その中で、ウィーン時代初期のピアノ曲や管弦楽、室内楽の作品が生まれました。

 また、ベートーヴェンがウィーンで着実に成功をおさめる上で忘れてならないのが、ボン宮廷のヴァルトシュタイン伯の存在です。ハイドンの門をたたいたのも彼の視線であり、伯は貴族出身で社交界での存在が大きいため、ベートーヴェンにウィーン貴族社会から多くの後援者を見つけさせ、社交界への参加をもみちびました。1805年に出版された<<ピアノ・ソナタ21番>>ハ短調は伯におくられ、今日この作品は<<ヴァルトシュタイン・ソナタ>>と呼ばれています。やがてベートーヴェンは多くの貴族と密接な関係を結んだが、ウィーン時代にもっとも重要な位置をしめた貴族はルードルフ大公で、終生友情が続いた唯一の貴族です。大公にささげられた作品は非常に多く、<<ピアノ協奏曲第4番>>(1805-06)や、オペラ<<フィデリオ>>(1814 ) 、ピアノ・ソナタ<<告別>>(1809-10)、ピアノ三重奏曲<<大公>>(18 11)、ピアノ・ソナタ<<ハンマー・クラヴィーア>>(1817-18)などがあり、とくに<<荘厳ミサ(ミサ・ソレムニス)>>(1818-23)は心血をそそいだ大作です。また、交響曲第三番<<英雄>>(1803-04)はロプコヴィツ侯に、<<ミサ曲ハ長調>>(1807)はキンスキー侯にささげられました。
  こうして貴族のサロンや公衆の前での演奏が有名になり、貴族の後援を得て、精力的な作曲活動を続けていたが、ベートーヴェンにおいて忘れてはならない悲劇はすでに始まっていました。それは1790年代に発病した不治の耳の病いで、これを苦にして1802年に有名な 「ハイリゲンシュタットの遺書」を書いています。これによると、すでに26.7歳でこの病いにかかっていたと思われ、1800年には病状がますます悪化、50歳頃までにはまったく聞こえなくなっていました。この耳の病いのため人との付き合いをさけ、生活や創作の面では多くの支障をきたし、作曲家としてこれ以上ないほどの苦しみの日々を送ります。そして、まわりの人々はますます彼を変人あつかいしていきました。
   耳の病いが悪化していた30歳を過ぎてから、毎年夏の初めから秋にかけてウィーン郊外や田舎などで過ごし、また、耳の療養のためにハイリゲンシュタットなどに滞在しました。森や谷間を歩き、大自然の中で「神」と語ることで彼は困難を克服し、交響曲第5番<<運命>> (1805-08)や交響曲第6番<<田園>>(1807-08)、ピアノ・ソナタ<<ヴァルトシュタイン>>、 <<熱情>>などの、もっともベートーヴェンらしい、激しさやドラマ性に満ちた傑作を生み出しました。この時期はベートーヴェンの中期と呼ばれ、もっとも奔放をきわめた黄金時代と言えます。  ところで、ベートーヴェンは終生結婚しなかったが、それは彼が思いをよせた女性がすべて貴族出身で、身分の差が大きな原因とされ、また、彼の気まぐれで激しやすい性格が恋を実らせませんでした。ベートーヴェンの死後、彼直筆の熱烈なラブレターが何通も発見されています。ちなみに、恋人への作品として、ピアノ・ソナタ<<月光>>(1801)はジュリエッタ・グィチャルディに、ピアノ・ソナタ<<テレーゼ・ソナタ>>(1809)はテレーゼ・ブルンスヴィルにささげられました。
 また、ベートーヴェンは貴族の女性以外はピアノの弟子をあまりとらなかったが、男性の弟子の中で、カルル・チェルニーは多くの実用的なピアノ練習曲を書き、ベートーヴェンのピアノ作品の演奏法について研究し、それを書き残した優秀な弟子でした。
 やがて晩年になるにしたがい、夏季の静養地をもっと遠地にもとめ、1818年からは毎年メードリングへ行き、次第に自己の内面に深く入っていきます。ベートーヴェン後期のこの頃の作品は、晩年のピアノ・ソナタ3曲、一連の弦楽四重奏曲7曲、<<ミサ・ソレムニス>>、そして<<交響曲第9番>>(1822-24)など、瞑想と幻想にみちた世界が表現されました。彼の晩年はますます悪化する耳の病いに加え、面倒を見ていたおいのカルルの素行の悪さにより心労が重なっていました。1826年秋には滞在先からの帰り道に発熱し、翌年3月にはもはや体調の回復は絶望的となりました。そして自分の遺産をおいのカルルに相続させるという遺書を残し、それから3日後の1827年3月26日、肝硬変で56年の生涯を閉じました。

 ベートーヴェンが後世に残した偉業は非常に大きく、中期のソナタ形式の改革はソナタの歴史の上で特にすぐれています。また、変奏曲においては、ティアベリ変奏曲(1823)に見られる、自由な変奏をおこなう性格変奏の技法が、シューマン、ブラームスなどのロマン派の作曲家に大きな影響をおよぼしました。後期においては、従来の古典的形式からますますのがれ、内容的にも技法的にもベートーヴェンの様式の総合を表現したと言えましょう。 音楽家として決定的な悲劇にみまわれながれら、多くの傑作を後世に残した驚くべき創作力、そして天才しか持ちえないその創作能力に、敬意を表します。
 



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